アラフォーバツイチおっさんお埴輪ハオのブログ

離婚、実家へUターンしたアラフォーのいろいろ所感日記

社会的死と、魂の生

痛風になった。

 

まあ、テレワーク業務中も酒をガブリガブリして

第三のビール500を8とかのスコアを通常モードで叩き出していたわけで、

尿酸値も7.0がギリギリアウトいうところを13というほぼほぼ倍のスコアで日々ごまかしていて

いつかは何かの痛みを伴う症状にでるとは思っていたが、

まさかまさかの大まさかでこのタイミングで出てくるとは思わなかった。

 

歩けない。すなわち外回りの仕事は出来ない。事務所勤務が出来ない。

買い物に行けない。役所に行けない。公園で春に咲きほこる花と戯れることが出来ない。

常連のいる飲み屋に行けない。夏のイベントを見に行くことが出来ない。

秋の少し寂しい、気持ちい風を感じることが出来ない。冬の積る雪をよけることが出来ない。

社会とかかわることが出来ない。これがすなわち社会的な死と思った。

 

社会的に死ぬと残るのは自分と、またもしかすると家族との

対話を交わすだけとなる。世界が一気に縮まる。

社会、家族、自分。

円が大きければ大きいほど、失った際の面積は大きく、その分

空虚な空間が出来る。

 

人との出会い、別れと似ているなと思った。

出来ないことが増えた分、おそらく関わりのある人が増えるんだろう。

これまで関わって来たけど、いつの間にかオレの前から消えていった人が居ただろう。

人とのつながりは個人の魂の中での社会的な自分のペルソナの数の多さだ。

もういい歳なので、オレの場合はペルソナ数は2~3程度で済んでいる。

SNSのフォロワーもわざと増やしていない。

魂の強固を固めることによって、社会的な死に対する体制を積んでいる状態だ。

社会が死んでも、オレは終わることはない。

死んだ社会に生きている意味があるかどうかは別として。